はじめに
お墓の仕事をしていますとお墓を建てるばかりではなく、お墓を撤去する仕事、所謂墓じまいの仕事が最近は少なくないようです。
弊社は都内および関東近県のお仕事をさせていただいておりますが、都心のお墓ですとコンパクトなお墓が多くそのお墓の墓じまいで済みますが、関東近県ですとコンパクトなお墓の5倍から10倍ほどの大きさの墓じまいのお話しもございます。
特に古いお墓ですとお墓のまわりに墓誌、つくばい、物置台、塔婆立て、古い石塔、水子地蔵、半加思惟像などがあり、都内ですとちょっとした一軒家が建つぐらいのスペースの墓地となります。(ちょっと大げさですね)
墓誌、つくばい、物置台、塔婆立て、古い石塔、水子地蔵までなんとなく理解できるが最後の半加思惟像って…はて?
と思う方がほとんどと思います。
その半加思惟像についてちょっと寄り道致します。
半加思惟像読み方は はんかしゆいぞうと読みます。
この写真は埼玉県富士見市上南畑の共同墓地の合祀墓にまとめて並べてありました。
富士見市上南畑半跏思惟像
おそらく、墓じまいのあとに対応できずに残ってしまって広い敷地の一部にまとめて並べられたものかと思います。
写真をみますとあっ、なんとなく見たことがあるようなないような…(100年以上も前のものですが念のため戒名や氏名等の個人情報はぼかします。)
えっ、初めて見るけど、あまり興味がないので…
とそんな心の声が聞こえてきますが(笑)
まあ 石屋の戯言ですのでしばし御辛抱ください。その半跏思惟像がなぜかお墓に多いようですので、幾つかの写真と正面に彫られている文字の意味を私なりに分析してみたいと思います。
ちなみにこの半跏思惟像は正面の文字は年月が経過しすぎて劣化が著しくほぼ判別は不可能に近いですが造立者の氏名と戒名の一文字が童女と読めます。
童女=成人しないうちに亡くなった女子とのことです。
なんとなく故人が幼少の子供で、そのために建てられたお墓のようなものといったイメージがわいてくるようです。
それでは、個人的に資料を集めた半跏思惟像の石碑の写真と判別の程度をご紹介いたします。
(私事の独自の解釈につき間違っていたらごめんなさい)
①埼玉県富士見市羽沢 商工会近く 半跏思惟像 埼玉県富士見市羽沢半跏思惟像 簡単な説明:戒名あり 尼の文字 元号元禄10年 丁丑(ひのとうし) 1697年 |
②埼玉県富士見市羽沢 商工会近く 半跏思惟像 埼玉県富士見市羽沢半跏思惟像 簡単な説明:戒名あり 尼の文字 梵字 あり |
③埼玉県富士見市上南畑 共同墓地半跏思惟像 埼玉県富士見市上南畑半跏思惟像 簡単な説明:戒名あり 尼の文字 元号正徳 造立者名あり |
④埼玉県富士見市上南畑 共同墓地半跏思惟像 埼玉県富士見市上南畑半跏思惟像 簡単な説明:戒名あり 尼の文字 年号宝暦6年丙子(ひのえね) 1756年 造立者名あり |
①埼玉県富士見市羽沢 商工会近く 半跏思惟像
埼玉県富士見市羽沢半跏思惟像
簡単な説明:戒名あり 尼の文字 元号元禄10年
丁丑(ひのとうし) 1697年
②埼玉県富士見市羽沢 商工会近く 半跏思惟像
埼玉県富士見市羽沢半跏思惟像
簡単な説明:戒名あり 尼の文字 梵字 あり
③埼玉県富士見市上南畑 共同墓地半跏思惟像
埼玉県富士見市上南畑半跏思惟像
簡単な説明:戒名あり 尼の文字
元号正徳 造立者名あり
④埼玉県富士見市上南畑 共同墓地半跏思惟像
埼玉県富士見市上南畑半跏思惟像
簡単な説明:戒名あり 尼の文字
年号宝暦6年丙子(ひのえね)
1756年 造立者名あり
正面から見て 右側に戒名
左側に 元号 文字3文字 造立 と分けられているようです。
さて、写真で記した戒名、元号、造立者 以外に丁丑、丙子とかあまりなじみのない漢字が二文字ありますが何か意味があるかもしれません。
丁丑と書いて(ひのとうし)と読みます。丙子と書いて(ひのえね)と読みます。
それではこの二文字の意味は何でしょうか。簡単に説明いたします。
干支 (えと。幹支〈もとすえ〉の意) ともいう。中国の上古に始る暦法上の用語。十干は,甲,乙,丙,丁,戊,己,庚,辛,壬,癸で,何を基準としたかは明らかでないが,もと一旬 (10日) を表わす。十二支は,子,丑,寅,卯,辰,巳,午,未,申,酉,戌,亥。すでに殷代に,干支の組合せで暦日を表わしていた。前4世紀頃,十干が五行 (木,火,土,金,水) に配当され,前2世紀頃,十二支が鼠,牛,虎,兎,竜,蛇,馬,羊,猿,鶏,犬,猪に配当され,これが伝えられて,日本では甲子を「きのえね」 (木鼠) ,乙丑を「きのとうし」 (木牛) ,丙寅を「ひのえとら」 (火虎) のように呼ぶ。漢代,前2世紀頃,干支の組合せが,年,月の順を表わすのに用いられ,十二支の時刻,方角などを表わすのに用いられるようになった。
つまり、干支とは、
十干:甲,乙,丙,丁,戊,己,庚,辛,壬,癸
十二支:子,丑,寅,卯,辰,巳,午,未,申,酉,戌,亥
の組み合わせから成り、その組み合わせは60通りあります。よって、60年で一巡し、「還暦」となります。60歳を迎えた人を還暦としてお祝いしますが、「還」の字には、かえる、ひきかえす、もどる、という意味があります。還暦とは、「暦=干支」が一周して元にもどるという意味なのです。
「十干」はなじみのない方も多いと思いますが、もとは1から10までを数えるための言葉です。「甲」「乙」は覚書や契約書などでよく目にしますね。「十二支」はご存じの通り、その年を12種類の動物で表す総称です。十干や十二支それぞれの意味や、組み合わせて十干十二支となった時の意味などを調べてみると面白いですよ!
近年における干支の参考パターン
和暦(年) | 西暦(年) | 干支 | 訓読み(音読み) | |
1 | 昭和59 | 1984 | 甲子 | きのえね(こうし) |
2 | 昭和60 | 1985 | 乙丑 | きのとうし(いっちゅう) |
3 | 昭和61 | 1986 | 丙寅 | ひのえとら(へいいん) |
4 | 昭和62 | 1987 | 丁卯 | ひのとう(ていぼう) |
5 | 昭和63 | 1988 | 戊辰 | つちのえたつ(ぼしん) |
6 | 平成元 | 1989 | 己巳 | つちのとみ(きし) |
7 | 平成2 | 1990 | 庚午 | かのえうま(こうご) |
8 | 平成3 | 1991 | 辛未 | かのとひつじ(しんび) |
9 | 平成4 | 1992 | 壬申 | みずのえさる(じんしん) |
10 | 平成5 | 1993 | 癸酉 | みずのととり(きゆう) |
和暦(年) | 西暦(年) | 干支 | 訓読み(音読み) | |
1 | 昭和59 | 1984 | 甲子 | きのえね(こうし) |
2 | 昭和60 | 1985 | 乙丑 | きのとうし(いっちゅう) |
3 | 昭和61 | 1986 | 丙寅 | ひのえとら(へいいん) |
4 | 昭和62 | 1987 | 丁卯 | ひのとう(ていぼう) |
5 | 昭和63 | 1988 | 戊辰 | つちのえたつ(ぼしん) |
6 | 平成元 | 1989 | 己巳 | つちのとみ(きし) |
7 | 平成2 | 1990 | 庚午 | かのえうま(こうご) |
8 | 平成3 | 1991 | 辛未 | かのとひつじ(しんび) |
9 | 平成4 | 1992 | 壬申 | みずのえさる(じんしん) |
10 | 平成5 | 1993 | 癸酉 | みずのととり(きゆう) |
それでもなじみの薄い方が多いと思いますので
その10干と12支組み合わせをした名前や地名を幾つか参考に見てみましょう。
その最たる地名(場所)が甲子園(甲子園球場)
甲子園球場
甲子園の名前の由来は、球場が完成した1924年(大正13年)が、暦の干支を構成する「十干」と「十二支」それぞれの最初である「甲」と「子」が合わさる縁起の良い年だったことに由来します。60年に一度しか訪れないこの年にちなみ、この付近一帯は「甲子園」、野球場は「甲子園大運動場」と名付けられました。甲子園は大変縁起のいい球場なのですね。
名前
新選組と言えば伊東甲子太郎の名前もよく聞く名前ですね。由来は、以下の通りです。
「伊東」 は、伊東道場を引き継いだ際に名乗った名字です。
「甲子太郎」 は、新選組に入隊した年の干支である「甲子」にちなんで命名されました。
詳細
伊東甲子太郎は、本名を鈴木三樹三郎と言います。
水戸藩士の家に生まれ、幼い頃から剣術に励みました。
1863年、江戸の北辰一刀流道場に入門し、伊東誠一郎の養子となりました。
1864年、新選組に入隊し、参謀兼文学師範に任じられました。
1867年、新選組内部の対立により脱隊し、同年中に近藤勇らによって暗殺されました。
「甲子」 という干支は、60年に一度しか巡ってこないことから、縁起の良いものとされています。伊東甲子太郎は、この年に新選組に入隊することで、自身の飛躍を期したのかもしれません。
なお、伊東甲子太郎の名前の読み方については、「かしたろう」と「きねたろう」の2つの説があります。一般的には「かしたろう」の方がよく知られていますが、史料によっては「きねたろう」と表記されているものもあるため、どちらが正しい読み方であるかは断定できません。幕末のころは名前の呼び名にはあまり頓着が無かったようです。
10干と12支の組み合わせは、その組み合わせにも深い意味合いがありますまた地名にも多く使われています。以下、いくつかの例を紹介します。
例:
甲子(きのえね)(こうし)
新しいことが始まる年です。これまでとは違うことに挑戦したり、新しい目標に向かって動き出すのに良い年です。
甲州(こうしゅう):山梨県の旧国名
乙丑(きつうし)(きのとうし)
ゆっくりと着実に進む年です。焦らずに、一歩ずつ確実に目標に向かって進んでいきましょう。
乙訓(おとくに):京都府南部の地域名
乙部(おっぷべ):北海道檜山郡乙部町
丙寅(ひのえとら)
エネルギッシュに行動する年です。積極的に行動することで、大きな成果を上げることができるでしょう。
丙申(ひのえさる):東京都台東区の地名
丙午(ひのえうま):岡山県岡山市の地名
丁卯(ていう)
平和で穏やかな時代です。争いごとがなく、人々が安心して暮らせる年です。
丁字(ちょうじ):東京都中央区の地名
丁卯(ていう):大阪府大阪市中央区の地名
戊辰(つちのえたつ)(ぼしん)
大きな変化が起こる年です。良い変化も悪い変化も起こり得ますが、柔軟に対応することで乗り越えることができます。
戊辰戦争(ぼしんせんそう):幕末から明治維新にかけて起こった戦争
戊辰(ぼしん):福島県喜多方市の地名
己巳(きどみ)(きし)
順調に発展していく年です。努力が実を結び、良い結果が得られるでしょう。
己斐(きひ):広島県広島市安芸区の地名
己巳(きどみ):山口県宇部市の地名
庚午(かのえうま)
力強く前進する年です。強い意志を持って行動することで、どんな困難も乗り越えることができます。
庚午(かのえうま):静岡県浜松市中区の地名
庚午(かのえうま):福岡県北九州市八幡西区の地名
辛未(かのひつじ)(かのとひつじ)
慎重に計画的に行動する年です。リスクを冒さずに、慎重に計画を立てて行動しましょう。
辛未(かのとみ):大阪府堺市堺区の地名
辛未(かのとみ):香川県高松市高松町の地名
壬申(みずのえさる)(みずのさる)
知恵と工夫で困難を乗り越える年です。頭脳をフル回転して、問題を解決しましょう。
壬申(みずのえさる):愛知県東海市の地名
壬申(みずのえさる):長崎県佐世保市の地名
癸酉(みずのととり)(みずのととり)
豊かなさと繁栄の年です。物質的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさも得られるでしょう。
これらの組み合わせは、あくまでも一般的な意味であり、実際にどのような年になるかは、その年の人々の行動や社会情勢によっても左右されます。
癸酉(みずのととり):東京都港区の地名
癸酉(みずのととり):鹿児島県鹿児島市の地名
これらの組み合わせは、地名以外にも、人名や企業名、商品名などにも使われています。それぞれの意味合いを理解することで、より深く理解することができます。
十干と十二支の組み合わせは全部で60通りありますがもっとわかりやすく一部のみを表記致します。
十干 | 十二支 | 組み合わせ名 | 意味 |
甲 | 子 | 甲子(こうし) | 新しいことが始まる |
乙 | 丑 | 乙丑(きつうし) | ゆっくりと着実に進む |
丙 | 寅 | 丙寅(ひのえとら) | エネルギッシュに行動する |
丁 | 卯 | 丁卯(ていう) | 平和で穏やかな時代 |
戊 | 辰 | 戊辰(ぼしん) | 大きな変化が起こる/td> |
己 | 巳 | 己巳(きし) | 順調に発展していく |
庚 | 午 | 庚午(かのえうま) | 力強く前進する |
辛 | 未 | 辛未(かのとひつじ) | 慎重に計画的に行動する |
壬 | 申 | 壬申(みずのさる) | 知恵と工夫で困難を乗り越える |
癸 | 酉 | 癸酉(みずのととり) | 豊かさと繁栄 |
それではその半加思惟像がなぜお墓の中にあるのでしょうかを深堀致します。
半加思惟像とは。
墓地に半跏思惟像石碑がある理由
墓地に半跏思惟像石碑がある理由は、主に以下の5つが挙げられます。
1. 故人の冥福を祈る
半跏思惟像は、釈迦が入滅後の8年間、菩提樹の下で坐禅を組み、深く考え事をしている姿を表した仏像です。悟りを開く前の苦悩と葛藤、そして真理を探求し続ける釈迦の姿は、故人が安らかで苦しみのない永遠の幸せを手にすることを願う象徴として捉えられています。
2. 故人の生き様を偲ぶ
半跏思惟像は、真理を探求し、苦難に立ち向かう釈迦の姿を表しています。これは、人生における様々な困難に直面しながらも、希望を捨てずに努力し続けた故人の生き様を象徴しています。
3. 生者へのメッセージ
半跏思惟像は、生者に対して、常に真理を探求し、自身の生き方を省み続けることの大切さを訴えています。死は避けられないものであることを受け止め、より良い人生を送るための指針となる存在です。
4. 墓地の雰囲気を荘厳にする
半跏思惟像は、静寂と深い思慮を感じさせる独特の雰囲気を持っています。墓地に設置することで、厳かな雰囲気を醸し出し、訪れる人に安らぎを与えてくれます。
5. 仏教への信仰を表す
半跏思惟像は、仏教徒にとって重要な意味を持つ仏像です。墓地に設置することで、故人の仏教への信仰を表すことができます。
6. 故人に女性が多い
今回の写真からも半跏思惟像は主に女性の故人が多いようです。水子地蔵は子供 今回の写真の半跏思惟像はほぼ戒名が彫られ戒名には尼が彫られており尼=女性を意味します。
7. 半跏思惟像は江戸時代からのお墓に多い
先に記した写真の様に江戸時代から続く先祖代々の地方の墓所内に鎮座されている場合が多い。 その大半女性が多いようです。
上記に加え、以下のような理由も考えられます。
江戸地代は、半跏思惟像等石仏が流行した。
故人を惜しみ偲んで半跏思惟像の石仏を親族が選んだ。
他の墓域にもその半跏思惟像が見受けられる。
墓地に半跏思惟像石碑を設置するかどうかは、個人の考え方や信仰によって異なります。しかし、半跏思惟像が持つ様々な意味を知ることで、墓地を訪れるたびに故人との繋がりを忘れることなく、自身の生き方を改めて考えるきっかけとなるのではないでしょうか。
これで墓地には半跏思惟像石碑が多く所謂 その理由も概ね理解できたような感じで納得したような気分で、その後車を走らせ埼玉県富士見市勝瀬
近辺を走らせておりますと突然民家の角地に半跏思惟像石碑に遭遇致しました。 写真参照
あれ… 半跏思惟像石碑は墓地限定のはずがなぜゆえにお墓でない場所に?と思い ここはGoogle検索で調べてみようと
埼玉県富士見市勝瀬の半跏思惟像石碑と検索したところ、埼玉県富士見市勝瀬の半跏思惟像石碑でこの写真が表示されましたが
詳細は、埼玉県富士見市勝瀬如輪観音菩薩像と表示されました。
如輪観音菩薩像って「にょいりんぼさつぞう」って何?半跏思惟像石碑じゃないの?
それではその違いはどこにあるのでしょうか。
ここは最近撮影した東京都国分寺市某所の半跏思惟像とその埼玉県富士見市如意輪観音菩薩像並べ違いを見分けてみましょう。
半跏思惟像と如輪観音菩薩像の違い
半跏思惟像と如輪観音菩薩像は、どちらも坐像であり、右足を左腿の上に載せているという共通点があります。しかし、いくつかの点で違いを見分けることができます。
1. 持物
半跏思惟像:持物を持たないことが多い。 国分寺の半跏思惟像持っていない。
如輪観音菩薩像:如輪(如意輪)と呼ばれる法輪を持つ。埼玉県富士見市勝瀬如輪観音菩薩像持っていない。
2. 手の数
半跏思惟像:通常は二臂(二つの腕)で、右手を頬杖のように顔に当て、左手を膝の上に置く。国分寺の半跏思惟像姿もそんな感じの座像です。
如輪観音菩薩像:二臂または四臂(四つの腕)で、二臂の場合は半跏思惟像と同じように右手を頬杖、左手を膝の上に置く。四臂の場合は、右上手に如輪、左上手に宝珠、右下手に蓮華、左下手に水瓶を持つ。富士見市の半跏思惟像姿と同じような座像ですが、何も持たずに手ぶらなようです。
3. 座り方
半跏思惟像:岩座に座っていることが多い。国分寺の半跏思惟像は確かに岩の上に座っているようです。
如輪観音菩薩像:蓮華座に座っていることが多い。埼玉県富士見市勝瀬如輪観音菩薩像は確かに蓮華座に座っています。
4. 表情
半跏思惟像:思惟(考える)表情をしていることが多い。うーん…思惟(考える)表情しているような?
如輪観音菩薩像:慈悲深い表情をしていることが多い。これも…慈悲深い表情をしている 慈悲深い表情のような
5. 代表的な像
半跏思惟像:東京国立博物館の《弥勒菩薩半跏思惟像》
如輪観音菩薩像:法隆寺の《如輪観音菩薩像》
これらの違いを参考に、実際に像を見比べてみると良いでしょう。
この半跏思惟像と如輪観音菩薩像の違いで比べてみたけど結局は顔も同じようだし、違いといえばなんだか岩の上に座っているか、蓮華座の上に座っているかの違いですかね?
あくまでも石屋の戯言ですが国分寺の半跏思惟像石碑は明和1700年後半 埼玉県富士見市勝瀬にある如意輪観音菩薩石碑は元禄1600年後半と
100年の違いこそあれ姿や顔立ちが非常に似ていますね。
江戸時代も石材店は存在したと思いますが、この様な座像などの石仏はやはり作成できる石材店はある程度限られていたのではないでしょうか。
もしかしたら作成元が一緒かもしれません。
ただし100年もの年月が経過していたら作成者は違うかもしれません?
かもって…100年の差があれば作成者は違うのが当たり前でしょ! 例えば元禄時代20歳のころ石工で如意輪観音菩薩石碑を作成して明和になって次は半跏思惟像石碑
を同じ石工が造るって優に120才は超えてしまいますよ!
あくまでも石屋の戯言ですがこの江戸の中期から江戸の後期そして明治までこのような石仏の作成は非常に多かったようです、今こそ、その作成の度合いは減ってはいますが、当時は馬頭観音や庚申塔、そして半跏思惟像、如意輪観音菩薩の作成依頼が多かったと考えられます。
当然、腕のいい石工も多く重要と供給が追い付かなく 特に元禄時代の石工さんなんかはとにかく注文が入る前に大量生産で人気のある石工は注文が入る前に何体も作成して、その石工が亡くなっても その石工が作成した半跏思惟像の在庫が100年先も残ったような残らないような…
少し大げさな話でしたが、おそらく半跏思惟像のニーズが多かったころはある程度作成してストックが結構あったのではと思います。
そして、如意輪観音菩薩石碑の注文が○〇村からオーダーが入ると慌てて石工が在庫のある半跏思惟像にちよいちょいと細工を施して如意輪観音菩薩に早変わり?作成したのではと思ったりもしましたが… あまり夢のある話ではありませんね。
落ち着いて考えると名もなき名工の石工が作成した半跏思惟像はレジエンドの見本として代々石屋に残っており
それを弟子たちが引き継ぎ師匠や先輩の作品をリスペクトして作成したことの方が信ぴょう性が高くロマンがありますね。
ながながお付き合有難うございます。
①東京都国分寺市 半跏思惟像と埼玉県富士見市勝瀬にある如意輪観音菩薩石碑
私なりに解読してみました。(間違っていたらごめんなさい)
東京都国分寺市 半跏思惟像 戒名あり善女=女性を意味する 元号明和6年 = 西暦1769年
よく見ると己丑夭と彫っておりますね己丑夭とは、己丑夭(つちのとうしよう)もしくは己丑夭(きうしゅう よう)=干支と五行を用いて、人の早死を表現した言葉です。
己丑(きうしゅう): 干支の60番目で、西暦では6年ごとに巡ってきます。
己: 十干の6番目で、土行を表します。
丑: 十二支の2番目で、牛を表します。
夭(よう): 早死、夭折などを意味します。
つまり、己丑夭は「土の年に生まれた牛は早死する」という意味になります。
しかし、これはあくまで昔の迷信であり、現代の科学では根拠のないものです。 実際には、生まれ年と寿命の関係は統計的に有意な相関関係は認められていません。
この言葉は、江戸時代の家系図などに多く見られます。これは、当時の乳幼児死亡率が高く、実際に幼くして亡くなる人が多かったためと考えられます。
②埼玉県富士見市勝瀬にある如意輪観音菩薩石碑
私なりに解読してみました。(間違っていたらごめんなさい)
こんな文字の羅列のようです奉造五月待供養為二世安楽 =にあの世とこの世の二世にわたり幸せに暮らせることを願う
五月待って彫ってある意味は=月待ち(つきまち) 仲間が集って念仏などを称え,飲食をともにしながら月の出を待つ信仰行事。 十五夜,十七夜,十九夜,二十二夜,二十三夜,二十六夜などがあり,熱心な地方では毎月,または1,5,9,11月などに行う。
元禄巳巳天って彫ってある意味は=元禄二年西暦1688年
元禄文化ってどんなことがあったのか調べてみました。
元禄二年は、江戸時代中期を代表する文化である元禄文化が栄えた年とされています。この年、綱吉が将軍に就任し、その後に側用人となった柳沢吉保のもとで、華美な享楽的な文化が発展していきます。また、この年には井原西鶴の好色五人男が刊行され、町人文化の代表的な作品として人気を博しました。
とにかく元禄文化が栄えたスタートの年と言えるのではないでしょうか。
埼玉県富士見市勝瀬にある如意輪観音菩薩石碑は、江戸時代元禄2年(1688年)に建立された石造の観音菩薩像です。高さ約1.5メートル、幅約80センチメートルの安山岩製で慈悲深い観音菩薩の象徴として、勝瀬の村地域住民に長年親しまれてきているのではないでしょうか。
この石碑の歴史を紐解くためには、江戸時代の勝瀬村の様子を理解する必要があります。当時、勝瀬村は江戸から約30キロ里離れた、武蔵国入間郡に属する小村でした。
石碑の右側には武州入間郡勝瀬村と彫られてるように見えますがいかがでしょうか。(そう見えるかもです…)
村の多くは農民で、江戸への年貢輸送や養蚕などの副業で生計を立てていました。近くの新河岸川を利用していたようです。
如意輪観音菩薩石碑が建立された年は、江戸時代中期の中でも特に厳しい時期でした。同年に発生した富士山の噴火で、全国各地で飢餓や疫病が蔓延し、多くの命が失われたのではないでしょうか。勝瀬村も例外ではなく、村人たちは苦難に喘ぎ苦しんでいたのではないでしょうか。
そのような状況下で、村人たちは如意輪観音菩薩に救いを求め、如意輪観音菩薩石碑を建立することを決意したのではないでしょうか。これはその失われた命を尊ぶ気持ちと希望を込めた気持ちが石碑に記されております。石碑には、 奉造五月待供養為二世安楽と彫られております→あの世とこの世の二世にわたり幸せに暮らせることを切に願っているようです。村人がこの厳しい時代を打破するために一致団結してこの如意輪観音菩薩石碑に村人全員の気持ちを込めて有志が寄付を募って造立した藁をもすがる思いが今も伝わってきます。
そんな暗雲の時代でも一筋の光明があります。元禄2年3月27日(1689年5月16日)に松尾芭蕉が弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が最も有名です。この石碑が造立したころに松尾芭蕉が江戸の深川からおくのほ道がスタートしております。
この埼玉県富士見市勝瀬村にもしあの松尾芭蕉が立ち寄っていたとしたら何かワクワクしますし、また、この元禄2年は5代将軍綱吉が生類憐みの令をだしこの頃、特に鷹狩にも熱中していたようです江戸から近い勝瀬村の新河岸川のほとりに綱吉が鷹狩に来ているかもしれません。
そんな激動の時代に勝瀬村の安全祈願や五穀豊穣、疫病退散などの願いがも如意輪観音菩薩石碑に込めているのではないでしょうか。
建立以来、如意輪観音菩薩石碑は村人たちの心の拠り所として、大切に守られてきました。毎年8月には、村の夏祭りで観音講が行われ、村人たちは集まって供養と祈りを捧げているようです。
近年、都市化の進展により、勝瀬村の風景も大きく変化しました。しかし、如意輪観音菩薩石碑は静かに佇み続け、村の歴史と人々の信仰を見守り続けています。
如意輪観音菩薩石碑の歴史は、単なる石仏の建立にとどまらず、江戸時代中期の農村社会の苦難と信仰、そして現代における文化遺産の継承という、様々なテーマを私たちに問いかけています。
今回の半跏思惟像と如意輪観音菩薩像についてお話ししましたが、特に古いお墓には半跏思惟像が多いようです。
これは、私の見解ですが半跏思惟像は戒名のパターンから察するところ女性の特に若くして亡くなり、また、かなり惜しまれて亡くなられたパターン 病気、事故等で残られた方々によりその故人の方のために一体の半跏思惟像を建造したようです。
古い墓地の中にはほとんどこの半跏思惟像一体程度しかなく墓地の歴史を紐解くと300年の歴史があると鑑みると、その中で1体のみその故人のために建造されたとなるといかに惜しまれて、また、残された家族の方々にもかなりの慕われた存在ではないかと存じます。
前述した如意輪観音菩薩像は村の中で募って1体建造半跏思惟像は一家族で1体建造と比較するものではないですが、それぞれの思いの深さが伝わって来るようです。
ちょっと待って
最近は家族の様式も変わりお墓をよりコンパクトにまた、仕事や環境、住まいの変化によりお墓じまいをされる方が少なくないようです。
前述したように先祖代々の古いお墓には様々なそのご先祖様の情報が隠されております。
お墓じまいをしてしまえばその情報もなくなってしまいます。
かといって、処分せずに保管するにしてもこの現代、そのような保管場所もなく、庭に置いておく訳にもいかず困ってしまうかもしれません。
その際は その立ち会う石材店に依頼して、その古い像や、墓誌等に彫られている戒名等の文字を画像等に残しておくのも必要ではないでしょうか。少し大げさですが、ご先祖様はどのような方なのか、われわれに伝えようとしているのかがご先祖の眠るお墓に代々続くメッセージが託されているような気が致します。
長々とお伝えしましたがこの辺で終わりに致します。
石屋の戯言でした。