埼玉県川越市、志木市、所沢市の庚申塔と馬頭観音について

下富の庚申塔

道端や小道、街道沿いに古びた石碑を見かけることがありませんか?

突然のお話しでびっくりされた方もいらっしゃると思いますが、今回はその、石碑について深掘りをしたいと思います。

写真3つ並んだ石碑
写真3つ並んだ石碑

皆さんは普段の生活の中で、街を歩いているときや近所の小道で見かける石碑があるかと思いますが… 忙しくて気にした事がない、あるようなないような? お墓じゃないの? 気にするのは歴史研究家か暇なおじさんなんて冗談ですが(笑)
この石碑は結構奥が深いのです。令和という現代でも街中には不明で古びた石仏があるかと思います。
地蔵尊、記念碑、菩薩像、道祖神、庚申塔、馬頭観音と多々あります。
一つ一つ説明すると大変なことになりますので今回はその石碑の一部の庚申塔と馬頭観音を選びまして、エリアは川越市の古市場、志木市の柏町、所沢市の下富、中富の三市に絞ってお話いたします。

 

庚申塔と馬頭観音

庚申塔とは

これは、主に江戸時代にとても流行った、信教が元とされています。
人間の体の中には三尸虫(さんしちゅう)という虫が庚申の日に悪行を監視して報告しに行くとされていることから、それを回避するためにその庚申の夜は夜通し眠らずに庚申講(庚申待ち)をして、天帝、猿田彦、青面金剛を祀り、お酒を飲んで宴会をしてすごす風習がありました。
庚申待を3年間(18回)繰り返すと、その記録として「庚申塔」や「庚申天」と刻んだ石碑を建てたのだそうです。
街道沿いや集落の入口など、江戸時代までは いたるところにたくさんの庚申塔があったと言われています。

庚申塚の特徴と歴史

庚申塚の石塔に彫られるパターンは様々でありますが、甲は干支で猿に例えられることから、三猿(見ざる聞かざる言わざる)を彫り、村の名前、参加者の氏名を彫ったものが見受けられます。仏教では、庚申のご本尊が青面金剛とされ、正面に青面金剛が彫られます。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもあります。
また、街道沿いに庚申塚が置かれ、塔に道標を彫ったパターンも見受けられる。村境や県境に建立されることもあります。
沖縄県では庚申塚の事例はなく、それ以外の全国で分布が見受けられます。地域により建立数が異なり、関東地方では多数の建立があり、関西地方では比較的少ないようです。
確認されている最古の庚申塚は埼玉県川口市にある庚申板碑で、文明3年(1471年)であり板碑の一部のようです。青面金剛刻像は福井県にある天保4年(1647)が最古とされています。

 

馬頭観音とは

馬頭観音の石仏は、馬頭の由来から、当時村人の生活で身近な馬に結び付けられ、庚申塚と同様に民間信仰の中で支持されて数多くの馬頭観音が残されています。これは、日本独自の馬に対する思いが馬頭観音としての信仰を生み出したようです。
近世以降は国内流通が活発になり、馬を頼りにして人や荷物を運ぶ手段として重宝された。当然生き物ですので、道中で亡くなったり、その亡くなった馬を馬捨て場で供養したりしました。
その証として馬頭観音が多く建てられ、馬を含む、動物への供養の意味合いも強くなっていきました。現在では、競馬場の近くに祀られていて、亡くなった競走馬の供養に用いられています。
地方競馬場でも廃止された場合は、敷地内に馬頭観音があり、現在も撤去されずに残されているとのことです。

ちょっと寄り道~近藤勇と馬頭観音~
弊社はご縁があってJR板橋駅前の新選組隊士の墓に平成12年4月に新選組局長近藤勇の立像を寄贈いたしました。
実は、この新選組隊士の墓は隊士の永倉新八により建立されたものであり、近藤勇はその近くの板橋処刑場で斬首されたそうです。
江戸時代は、この近くに馬捨て場(馬頭観音)、処刑所などあり、史実によりますと近藤勇の首は京都で晒され、遺体はその場所で安置されたとのことですが
当然諸説がありますが、遺体は不憫に思った親族が掘り起こし、日野の菩提寺に納骨した説が有力なようです。
板橋には馬の供養場所と処刑場が近くにあり、幕府のために大活躍をした、人物が、賊軍扱いされて、最期の末路はいささか残念ではございますが、現在は大河ドラマ等の人気で現地では供養祭もあり、新選組もだいぶ美化されている部分もありますが現在も尚、人気の度合いは高いようです。
新選組局長近藤勇の立像
有限会社りょう石 新選組近藤勇立像 寄贈

馬頭観音の特徴と歴史

主に木造や銅像の仏像は少なく、石像、石仏、石碑として残っているものが多いことが馬頭観音像の特徴と言えます。
また、馬頭観音は道端の事件地、事故地、などに祀られている場合もあるようですが、主に馬の供養塔として建てられていることが多いです。

墳怒の相と逆立つ髪

優しい穏やかな表情の観音様とはかけ離れた特徴を持ち馬頭観音は髪が燃えさかるように逆立ち、恐ろしい形相です。
この形相は、観世音菩薩三十三化身(かんぜおんぼさつさんじゅうさんけしん)の内、この馬頭観音のみが、恐ろしい怒りの度合いが強いほど、人々の救済する力が強いと考えられております。

三面六臂、四面六臂

三面六臂(さんめんろっぴ)三つの顔に六本の腕、四面六臂(よんめんろっぴ)四つの顔に八本の腕で表現されていることが多いです。
この多くの顔や腕でありとあらゆる生き物を見守り、救済する役目を表しております。
腕が多い分、仏具をもつことが可能であり、煩悩を打ち砕くための剣や斧、こん棒を持ち戦闘態勢のあるのがほかの観音像と違うところです。

馬口印を結ぶ頭上には馬を表す

馬頭観音は、印を結んであります。その結び方は、人差し指と薬指を折り、他の指を立てる 馬口印(ばこういん)と呼ばれる印相(仏の手の形)を結んでいます。よく見ると頭上には馬が表現されて、その馬が煩悩を食べつくし、打ち砕くとされているようです。

馬頭観音は、人差し指と薬指は折り、他の指を立てる「馬口印(まこういん・ばこういん)」と呼ばれる印相(仏の手の形のこと)を結んでいます。頭上には馬が表現され、この馬が煩悩を食べ尽くし、打ち砕くと考えられています。

馬頭観音の歴史は、観音菩薩の穏やかな顔に対して、怒りの顔で表現され、その怒りの強さで人々を救済する力のあらわれと前にも述べましたが、歴史的背景として現在でいえば車のように、人々の生活の中では馬が無くてはならない存在であったと察しが付きます。
それだけご先祖様は、様々な災いを避けるようにそしてご利益が得られますようにと馬頭観音に頼る部分も多かったのではと思います。
たまたま、道端で出会った際には、静かに手を合わせてみるのもいいかもしれません。

 

川越市、志木市、所沢市の庚申塔と馬頭観音

埼玉県川越市古市場庚申塚

埼玉県川越市は城下町もあり新河岸川を水路として江戸まで頻繁に舟運として川越と江戸を結ぶ重要な輸送路として隆盛を極めた新河岸川は近くに流れております。
江戸の経済の中心は日本橋までと小江戸の町とされる川越は江戸の町と縁が深かったようです。
新河岸川の舟運は寛永15年(1638年)川越の大火で焼失した仙波東照宮再建のため建築資材を舟で輸送したことが始まりとされております。江戸時代中期に古市場河岸、明治中期に仙波河岸が開設され、明治中期まで川越の舟運は繁栄しました。
この古市場も江戸時代末期に創業した橋本三九郎醬油製造所が明治中期に建てられ、古市場河岸から新河岸川舟運で輸送していたようでこの醤油は1970年まで製造されていたようです。

古市場庚申塔

その、明治時代以降は鉄道の開通により運送手段は舟運から鉄道に移行しましたが、当時の隆盛を極めた状況は今ありませんが古市場には幾つかの共同墓地が点在してその一つの共同墓地内には、当時の栄耀栄華を感じさせるような庚申塚(庚申塔)があります。

古市場庚申塔

正面右から二番目庚申塔 宝永2(1705年)石像正面青面金剛立像 合掌六臂。この青面金剛立像は丸みを帯びていて浮彫が目立ちます。頭上にはターバンを巻いているようですが、よく見ると蛇がとぐろを巻いているようです。目は吊り上がり、真一文字の口は顎を突き出し金剛像の足元には、恐らくですが四つん這いになり負けを認めた鬼(邪鬼)のようなものがいます。
その下には、三猿(見ざる聞かざる言わざる)を彫られております。その他、鶏のようなものが彫られており、左右には建立者、村名が彫られているようですが、白っぽく、剥離も見られて流石に300年以上の歴史が物語ります。
当時の石工の技術は高度で、よく雰囲気のあらわれた青面金剛立像は秀悦であり、埼玉県川越市周辺にはこの作者の像が多々あるように思われます。
当時川越の流通センター的な場所は村人にとって栄耀栄華の場所でもありこの庚申塔は当時、信仰が栄えた一つの証明のような気がしますが、今は、共同墓地内に寂しそうに鎮座しております。

 

埼玉県所沢市 三芳町三富(上富、中富、下富)の歴史

川越藩主となった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)元禄7年(1694年)、長年争いを続けてきた入会地が幕府によって川越藩領と認められたため、家臣の曽根権太夫(そねごんだゆう)らに命じ周辺地域の開拓に着手しました。元禄9年(1696年)5月には開拓地の検地が行われ、上富・中富・下富の三村が誕生します開拓地の名に「富」の文字を付けたのは吉保で、これは「論語(ろんご)子路篇(しろへん)」からとったものと伝わります。また、吉保は、入植者を求める一方で、開拓農民の心の拠り所とするため、菩提寺として多福寺(たふくじ)を、祈願所として毘沙門社(びしゃもんしゃ)(別当寺 多聞院(たもんいん))の一寺一社を創建しました。

ちょっと寄り道~三富は所沢じゃないの?~
よく、上富・中富・下富を所沢と勘違いされるも多いと存じますが、上富は隣の三芳町、中富・下富は所沢市となります。
何故かというと、明治22年(1889年)上富村は藤久保村、竹間沢村、北永井村の4村と合併して三芳村に、中富村、下富村は神米金村・北岩岡村・北中村と合併して富岡村となり三富地区が分れたそうです。昭和18年(1943年)富岡村が所沢町、小手指村、山口村、吾妻村、松井村と合併して所沢町となる。
昭和25年(1950年)所沢町が市政を施行して所沢市となる。
昭和45年(1970年)三芳村が町制施行により三芳町となる。こんな歴史があったのですね。

それでは、その所沢、下富、中富の 庚申塔 馬頭観音の一部をご案内いたします。

所沢市下富 秋草学園高校前に立つ石仏3体

百萬返供養塔と聖観音菩薩

今回は、庚申塔と馬頭観音に絞っておりますので他の2体、百萬返供養塔と聖観音菩薩は割愛させていただきます。

百萬返供養塔と聖観音菩薩

百萬返供養塔は次の所沢多聞院(たもんいん)山門前でご紹介いたします。

下富の庚申塔
下富の庚申塔

この庚申塚の顔つきは残念ながら破損しておりますが、その他の金剛像の出来栄えは丸みを帯びていて技術も高度であると思われます。
恐らく顔の表情も、足元に邪鬼、やや欠けてはおりますが三猿(見ざる聞かざる言わざる)を彫られておることを鑑みますと、目は吊り上がり、真一文字の口は顎を突き出した形相の青面金剛立像ではないかと思います。
この青面金剛立像は顔以外きれいですので、簡単にその立ち姿を説明いたします。

青面金剛立像

三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されますが、一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いです。 頭髪の間で蛇がとぐろを巻き、手や足に巻き付いている場合もあります。また、蛇を首や胸に掛けた像も見られます。 彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。この青は、釈迦の前世に関係しているとされています。
以上のような姿は、密教の明王像、特に軍茶利明王に通ずるものがあります。

日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が表されている例が多いです。木造の古例としては、奈良・東大寺の木造青面金剛立像(重要文化財)が有名です。青面金剛立像をベースにして庚申塔も作成しているので、前述した川越の古市場の青面金剛立像も頭にターバンのようなもの、は蛇がとぐろを巻いている様子と、足元の鬼のようなものは、邪鬼であり、三猿像も彫られています。色彩はその名の通り青い肌に塗られるとのことですが、現在は素のままの石塔ですが当時はその青面金剛立像に青色が彩色されていたのでしょうか? 非常に興味深いです。

所沢市中富多門院の馬頭観音

多門院馬頭観音

所沢の名刹 多聞院(たもんいん)山門前にひっそりと佇んでいます。正面には馬頭観世音菩薩と彫ってあり、正面左わきには奉納西国、秩父、坂東、百番供養塔と彫ってあります。
今まで見た馬頭観音の中で石塔が大きく、正面が書体のみで、脇には奉納文字がはっきりとわかるのは珍しいです。

多門院馬頭観音

西国33番、坂東33番、秩父34番合計百か所の観音霊場の供養塔ではないでしようか、江戸時代にはその百番巡拝を記念し供養した塔ではないかと思います。
昔は、かなり目立つ場所、所謂、街道などにあったのではないかと推察します。
村人の方々が百番巡拝の記念と馬頭観音のセットで建立したのではないでしょうか。
よって、体の弱い方、お年寄りも、百番巡拝はできないにしても、この石塔でお参りすることで百番巡拝をしたと同等のご利益があったとされたのではないでしょうか。
建立年月日は裏面で撮影は遠慮しましたが、天命三年(1783年)から天保15年(1844年)までに何基か現存するとのことなのでそのうちの一基が
前述の所沢下富秋草学園高校前の百萬返供養塔、もう一基が所沢市中富多門院前ではないでしょうか?あくまでも石屋の戯言ですので、これ以上はご容赦ください。

志木市柏町の歴史

埼玉県志木市の西部に位置し、北側には柳瀬川がながれ、町内には武蔵野台地の縁にあたり起伏が多い、この町名は昔に存在した柏城からきている。柏城は木曽義仲の子孫で武蔵の豪族であった大石氏の居館です。同地には、平安時代、藤原長勝、在原業平の居館という説もあるようですが不明です。
鎌倉時代の正応2年(1289年)に二階堂氏が築城したとの説もあります。大永4年(1524年)山内上杉氏の重臣、大石信吉が改修し居城しました。その後、北条家の支配下でしたが、皆さんご存じの秀吉の小田原征伐で廃城になりました。現在は志木第三小学校があります。今回ご案内します舘氷川神社と行屋稲荷の石仏が建立したころにはすでにこの柏城は現存しなかったようです。

志木市柏町の石仏

次は、埼玉県志木市柏町にある舘氷川神社と行屋稲荷の石仏です。
舘氷川神社正面入り右側にある並んだ2基が庚申塔です。

二基の庚申塔
二基の庚申塔

この日は天気が良く、一基が木漏れ日の影響でよく判別ができませんでした。
右側の像は、庚申塔としては、珍しい阿弥陀如来の立像で寛文12年(1672年)です。
石材の状態が良いのか、阿弥陀如来の立像の作成現場が通常の庚申塔青面金剛立像の作成現場とは違うのか
350年の年月を感じさせないものを感じさせます。

一方的な考察では、将来的に現存させたいがために、やや高級な石種で作成にたずさわる石工もこだわったような気もします。
もう一方の庚申塔は木漏れ日で分かりにくいと思いますが、寛文11年(1671年) 阿弥陀如来の立像とは異なり、風化も、劣化も目立ちます。三猿の下には、大ぶりの蓮華が彫られております。ほぼ同時期の作品ですが、状態は圧倒的に阿弥陀如来の立像がよいですが、寛文11年(1671年) の作成と考えればこの庚申塔も悪くはないと思います。

六面単性石憧

もう一つは志木市柏町にある行屋稲荷の石仏です。
志木市教育委員会の立て札が近くにありその一部を引用しますと、行屋稲荷の庚申塔(ぎょうやいなりのこうしんとう)は正保5年(1648年)に造立されたもので、近世の石仏、石神の中では、市内で最も古く、六面に六地蔵を配しており地蔵信仰と庚申信仰が一緒になった珍しい六面単性石憧(せきどう)とのことです。かなり歴史的な価値は高いものであることは間違いないと思います。

六面単性石憧

番外編

作業風景

令和の時代に埼玉県某所に馬頭観音を建立致しました。

作業風景

お客様のご依頼ごとですが長い年月の中で老朽化等剥離等も目立ち新規に建立致しました。
ご依頼内容は極力、当時の石材で復元に近い感じで作成とのことです。

さて、この馬頭観音はどの石でできているのでしょうか?
前述の石塔を鑑みますと、古くからは1600年頃から江戸末期から明治後期が多いと見受けられますが、今回ご依頼のあった馬頭観音は石塔正面に「馬頭観世音」と彫ってあるのみなので、その他建年号、建立者が劣化により判別不明のため、判別のできる馬頭観世音と○○村世話人と彫りました。
建立年は、石塔表面に馬頭観世音の書体のみで恐ろしい形相観音様が彫られていないところから、江戸時代末期から明治中頃のように思われました。

埼玉県作成馬頭観音

石材は、その当時は、御影石の存在よりも加工しやすい安山岩が主流なので旧馬頭観音も石材の風合いからあるエリアで扱われている安山岩が一番近いものでその石材で加工作成致しました。

埼玉県作成馬頭観音

加工も当時作成したであろう加工技術を意識して、水磨き加工までとしました。
恐らく100年ほど経過しますと、現存している雰囲気のある馬頭観音に近づくと思います。
その時、施主の方と話しましたが、建立年が明確ならその年代を彫ったのにね…とのことです。
その時 感じたことといいますか、思ったことを戯言としてお伝えいたします。

石屋の戯言①
令和の時代に当時の馬頭観音を復元する場合今回の馬頭観音にもし建立年が明確であれば恐らく現代でもその時代の建立年を彫ったのではないか。例えば建立年が正保4年で今が令和4年であってたとしても、復元であれば当時の年代を優先したはずではないかと…。
何を言いたいかと言いますと、100年前も200年前も同じようにその時、ある理由により劣化してしまった状況のものを建替えた場合もし、その建立年が残っていたらその当時の年代を優先して復元するのではないかと思いました。
つまり、300年前の建立の馬頭観音でも実は100年前に建立した馬頭観音かも知れないということですが…奥が深いような…深くないような…。
石屋の戯言②
今回気づいたことですが、それぞれの地域の庚申塔や馬頭観音にしろ石工の技術が高く感動しましたが、石材の状況と字彫りの関係を鑑みると、もしや、石塔に細かい観音等の加工は決められた、それ専門に作成する作業所みたいなエリアが存在して、そこで大量に作成された、馬頭観音、庚申塔などが各エリアに納められて、納められた地域の石工がその馬頭観音、庚申塔などにその地域で把握しにくい
建立者名、地域名等を彫つたのではないかと思いました。極端に言えば、地域が違うが作者は同じみたいなこともあるような…ないような…。
全てが石屋の勝手な戯言でので…お気になさらないでください(笑)

 

まとめ

今回は埼玉県の川越、所沢、志木の一部の馬頭観音、庚申塔を筆者の勝手にピックアップしてみましたが、例えばGoogleマップで馬頭観音像と検索しますと、近場のエリアに数か所の馬頭観音の所在が判明致します。
馬頭観音の中では投稿写真もあり、メジャーなものや、名もなき路傍の馬頭観音もあり、河川敷に処分された?馬頭観音も表示されます。地域の中ではきっちりと祠の中に祭られた馬頭観音、共同墓地の中に移設されたような馬頭観音、名所となり重要視され、由来の立て札迄ある馬頭観音と様々です。

名もなき馬頭観音

今回弊社で建替えた馬頭観音は、Googleマップで検索しても表示されない名もなき馬頭観音でした。その周辺を探してみますと、名もなき馬頭観音がもう一基ありました。

名もなき馬頭観音

察するところ、個人で建てたり、世話人同士で建てたり、何かの節目で建てたり、災害天災で建てたりと様々のようです。
今回の内容で一番古い庚申塔は正保5年(1648年)で、今から約350年以上も経過しております。その間、その時、その場所では、何があったのでしょうか 戦場や、川の氾濫、大火、地震、恐慌、体制の変更etc.
その時々を生き抜いた住人たちは、夢を抱き、知恵を絞り、時には挫折しては、希望を抱き、喜怒哀楽の中で、この馬頭観音、庚申塔に
祈り、350年以上な間人々の生きるための生活を繰り返してきた証のような存在感を感じます。
昔からその場所にあった石像も、時代の流れの中で、現状のままその場所に管理されている石像は稀有であり、良くて移設、運が悪いと川の氾濫などで流されてしまい、やむなく地域の開発等で処分された石像も少なくないようです。
時間に追われる毎日ではありますが、馬頭観音、庚申塔を眺めてみると何かを語りかけてくるかの如く穏やかな気持ちになれるのではないかと思います。