現代の世に至ってもなお脚光をあびる赤穂浪士。 その影で時代の波に翻弄された家族たちのその後が、無縁仏とはあまりにも悲しい。 事件の陰で思いもかけない運命をたどった女性の歴史が陽の目をみるのなら東京陵石は、 その墓に息吹を与えたい。 その思いが今、形となって皆様方に見届けていただけるようになりました。 是非、見立寺に足をお運びください。
寿昌山了心院と号し、浄土宗に属します。永禄元年(1558)、小田原北条氏の重臣で川越の城将大道寺正政繁候が、感誉存貞上人を講じて開山されました。堂前のつげの古木の下に、徳本行者の名号稗と古誌に記されている石灯籠があります。現本堂は、明治14年建立のものです。 布袋尊は中国唐代の禅僧で名は契此。小柄で太鼓腹、大きな袋を担って各地を放浪し、吉凶を占い、福を施して倦むことがなかったといいます。又、未来仏たる弥勒菩薩の化身ともいわれ、昔から崇められてきました。
■小江戸川越七福神について
歴史と伝統のある川越は、一名「江戸の母」とも言われ、大江戸(東京)に対し「小江戸」と呼ばれておりました。今でも市内の随所に城下町のたたずまいを残し、文化財も多く、拝観や見学に訪れる人が年々増えております。 小江戸川越には、古くから七福神をお祀りしている寺々があります。七福神信仰は、室町時代末期より行われ「七難即滅、七福即生」の説に基づくものともいわれております。又家康公と関わりのあった天海大僧正は、天下泰平と人々の幸福を願って、七福とは清廉一恵比須天、有福一大黒天、威光一毘沙門天、愛敬一弁財天、人望一福禄寿神、寿命一寿老人、大量一布袋尊と申されました。江戸時代には、七福神めぐりをして無病息災、家内安全など諸願成就を願う人々が寺社をめぐり参詣していたものです。 小江戸川越七福神めぐりは、全行程約6km、東武東上線川越駅や川越市駅、西武線本川越駅を起点に徒歩でも半日、観光と健康増進を兼ね、丁度手ごろなコースです。初詣をはじめ、毎月1日のご縁日にもご家族揃ってお参りをされ、皆様のご健康と諸願成就をお祈り下さい。
江戸時代に主君の仇(あだ)討ちをした赤穂浪士の一人、矢頭右衛門七(やとう・えもしち)の妹の墓が川越市元町二丁目の見立寺にあり、墓碑を確認した郷土史家らが「事件の陰で、思いもかけない運命をたどった女性の歴史を浮き彫りにしたい」と、足取りなどの調査を始めた。 同寺に妹の墓があることは、浪士の地元の兵庫県赤穂市の市史綱さん室でもつかんでいる。 しかし、無縁仏になり、今ではどこに墓碑があるのか、地元でもよく知られていなかった。川越市内の郷土史家小泉功さん(69)と吉野侑男さん(70)らが昨年夏、妹の嫁いだ「多加谷家」の墓碑を捜し、その側面に妹の戒名と死亡年月日が刻まれているのを確認した。 戒名などは風化し、墓碑はひっそりとしている。 小泉さんらの調査では、妹は右衛門七兄弟の次女。一七〇二年十二月の討ち入りを前に、女ばかりとなる一家の行く末を案じた右衛門七は、母親と妹らとともに叔母の嫁ぎ先の奥州白河藩(福島県)の武家に預けるため大阪を出発した。途中で女子の通行手形がないという理由で通れず、大阪の知人に預けたまま討ち入りに加わり、翌年二月に切腹した。十八歳の若さだった。残された母と妹らは、幕府に窮状を認められ、白河の親類の多加谷家に引き取られる。 次女は同家の次男と結婚するが、一七四九年に白河藩主の国替えとともに上州厩橋(前橋市)、さらに同六七年には川越に移住した。七十歳代になっていたと推定され、翌年三月に病没したという。 系図や関係した地域の資料が十分でないため、詳しい生活の様子などは不明。小泉さんらは前橋などにも出かけ、男性社会の中で埋もれた女性の歩みを調べたという。赤穂市の市史編さん室は「浪士の遺族は全国各地に散らばり、東京や白川などへも散った記録があります」という。